Kunio's Excellent Selection of Guitar  
 
 

A.B.B no1/no2

THE ALLMAN BROTHERS BANDとの再会

 今回は、ディッキー、グレッグ、そしてアレンが名古屋店へ来てくれたり、カークからABBにまつわる秘話を聞かしてもらったり、昨年にまして友好関係を深めることができました。彼らのコンサートは、"ステイツボロ・ブルース"で始まり、新旧取り混ぜて演奏してくれました。バンドの演奏レベルは、昨年に増して高くなっており、毎回違う曲を演奏してくれました。特にアコースティックセットは、彼らの音楽のルーツでもあり、昨今のブームになっている若手ロッカーのそれとはひと味もふた味も違い、さすがという感じでした。また、1月22日はグレッグが軽い食中毒で倒れ演奏が不可能になり、結局彼ぬきで演奏するという珍しいコンサートを見ることが出来ました。彼がステージにいないのはちょっと寂しかったのですが、"YOU DON'T LOVE ME"等この日しか聞けない曲を披露してくれ、マニアックなABBファンには大受けのようでした。
 さて、これからはプライベートにつき合った時に話してもらったことをご紹介しましょう。
 まず、20年以上ABBを陰になって支えてきたカークから呼び出しがあり、出向いた時のお話をします。カークは、スタッフの中で2番目に古く、彼の仕事はABBの歴史を記録すること、ABB専属のカメラマン、そしてアシスタント・Mを兼ねています。彼は他の誰よりも発言力があり、昨年当社の宣伝にグレッグやディッキーを載せれたのもこの人の許しなしではできなかったのです。
 ホテルに到着するとグレッグも一緒にいて、わたしに「ギターを持ってくるつもりだったのに飛行機を乗り換えした時になくしてしまい申し訳なかった」といって、マネージャーとラウンジへ消えていきました。それから、カーク夫妻と昼食をとりながら会話を弾ませることにしました。彼から「昨年クニオにプレゼントしてもらったABBに関する当時の本などABBの歴史の上でとても役だったよ。特にイーストアピーチの鏡はとても貴重でアメリカでも手に入らないし、身内で持っているのはグレッグの母親だけだったからさ、さっそくその写真を今度出版したABBの楽譜に載せたよ。」と感謝されました。
 以下は、彼との会話を抜粋したものです。
きしだ:「デゥエインは左利きじゃないのかな?それと血液型を知りたいんだけれど….。」
カーク:「その通りだよ。でもデゥエインだけじゃなくてグレッグも左利きで、ギターを弾くときだけ右なんだよ。血液型は知らないよ。たぶんO型じゃないかな。」
きしだ:「グレイトフル・デッドのクレイジーなファンのことを"デッド・ヘッズ"というが、ABBのクレイジーファンのことはなんと呼ばれているんだい?」
カーク:「ファミリーとかブラザーとかいう時もあるが、特別な名前はないよ。」と答えて、それからちょっと含み笑いしながら、次のように話し出しました。
カーク:「ディッキーのファンに対してはあるよ。ディッキー・ヘッド(ディック・ヘッドとはマヌケの意味)というんだ。あはは…。」
この冗談でみんなが大笑いしていると、ちょうどグレッグが通りがかり、グレッグ:「う~ん、俺も聞いたことがあるなあ…。」と笑いながらのっそり、のっそり歩いていきました。昨年以上にパワフルにバンドが仕上がっていることについてカークは次のように答えてくれました。
カーク:「まず、全員の呼吸が合ってきたこと。それにディッキーが昨年のヨーロッパツアー中、過労で倒れてしまい、非常に辛いツアーを強いられたことがあって、帰国後すぐ酒とタバコを止めたんだ。それからよりパワーアップしたんだよ。この一年で2時間30分のステージを96回こなしたが、どこも力強かったよ。全米ツアーの一部はリトルフィートが一緒にやってくれて、非常に好評だった。ビックイベントは3回ほど参加したが90分ステージなのでもう余りやりたくないなあ。日本公演後はアメリカのイーストツアーをする予定だよ。」その他にまだ面白いことをたくさん聞かしてくれたカークは、会場入りの準備のため部屋に戻って行きました。

カークと私はジェイモと一緒に会場へ向かいました。ジェイモは、バンドのメンバーの中で一番温厚でユーモアたっぷりな人です。車内でおどけながら「昨夜家にいる女房に電話し、ナンシーの話をし始めたら、急にナンシーって誰さ?東京の女なのかい?と勘違いされて怒鳴られてしまったよ。だけど恐かったなあ…。」とひょうきんに話してくれました。それからジェイモがなぜナンシーという名前にしたんだいと聞くので「昔使っていたギターにつけた名前をとったんだ。B.B.KINGのルシールみたいなものだよ。」と説明しました。
その後会場でディッキーに1957年LPstdゴールドトップを見せると、「へーぇ、これはリフィニッシュかい?えっ!オリジナル!すごいなあ。こりゃいい!ほら、きれいだけでなく音も良いぞう!」と興奮してみんなに弾いてみせていました。彼は非常に明るく、「これを僕にプレゼントしてくれるのかい?それはどうも有り難う。」といって持ち去るふりをし、周囲をなごましていました。
名古屋でディッキーと再会し、店へ向かう途中「東京でみたLPはクニオのか?高いんだろう。」と聞いてくるので、「いいや、今は僕のじゃなく、昨年M氏に買ってもらったギターだよ。あれは勿論高かったけれど、あれぐらい良い状態で保存されているものは滅多に見つからないし、どの時代でもいいギターは高いからね、しょうがないよ。」というと、「そうだなあ、もっとも20年前から50年代のLPは特別高かったからなあ。」と納得していました。
今何本LPを持っているか聞くと、「あっはっは、これがお笑いなだ。今LPがこんなに高くなっているけれど、俺は今まで持っていたギターを誰かにやったり、何かと交換してしまったんだ。持っていれば良かったよ。だから今使っているゴールディーとLPstd'54(フルムーンショーで見ることができる)だけかなあ。あっ!そういえば少し前にGIBSON社から何本かプレゼントしてもらったな。」次にデゥエインのギターは持っているかと聞くと、「俺はドブロしかもってないよ。彼のギターは大半は彼のファミリーが所有しているよ。」といってました。ディッキーは、店にかかっている写真等を見て、「クニオはデゥエインとベリーの墓へ行ったことがあるんだ。」と驚き、「そばにエリザベスリードの墓があったんだけれど、行ったかい?」と聞いてきました。「勿論行ったよ。先にデゥエインの墓にいた土地の人が教えてくれたからね。」というと、「あの頃は金が無くて、近くだったからよく散歩したり、
曲を書いたりしたよ。」と思い出深げに話していました。
ディッキーは壁にかかっているES-335T(THE GIBSONの本に載っている)を非常に気に入り、かなりの間弾いていました。弾いているその顔は、今でもギター小僧という感じで、見ている方はとても嬉しかったです。
それから2階に上がり、LPstd'59年や珍しいギターを見てもらいながら談笑していると、彼は古いABBの写真を見て「あれっ俺にヒゲがない。これはいつの写真だろう?」とびっくりし、しばらくの間眺めていました。
最後に、彼はジョージア缶コーヒーが本当にジョージアで生産されていると思い込んでおり、「クニオ、なぜこのコーヒーはジョージアでは売っていないんだろう。」とか、「なぜ、アメリカにはHOTを売っている自動販売機がないんだろう。」と不思議がっていました。また、「今度来るときのスポンサーは、ジョージアコーヒーにしよう!そうすればイメージもぴったりだろう。」とも話していました。ちょっと悪のりして「じゃあ、ジョージア・オン・マイ・マインドをステージでやらなくちゃね。」というと、「OK!そうしよう。」とディッキーは答えていました。同様なことをディッキーと数回話しましたが、今だもって私には彼が本心でそう思っているのかわかりません…。ディッキーをホテルへ送った後、ベーシストのアレンと店へ戻ろうと外へ向かう途中、グレッグが我々を見つけ「東京店へ行く約束をして行けなかったから、俺も是非つれていってくれ」と話しかけてきました。10分後に待ち合わせをすることにしました。しかし、アレンは時間通りに来たものの、待てども待てどもグレッグは来ません。

待っている間にみんなそれぞれ遠くに住んでいるのにどうやって集まってレコーディングするのか聞いてみました。アレンいわく、「レコーディングやツアー前にフロリダにある名もないスタジオを借り切り2週間ぶっ通しでリハーサルするんだ。前回のレコーディングもZ.Z.TOPのメンフィスにあるスタジオを借りてやったんだが、その前に同様にリハーサルしたんだ。」と説明してくれました。
約1時間経ってやっと現れ、店に向かったのです。彼らは静かなディッキーとはおお違い、車内でも大声で唄っていました。彼らは、店についてもワイワイと騒ぎっぱなし、デゥエインの写真や自分達のパネルが所狭しに展示してあるのを見て、大声で歓声をあげていました。特に兄貴の墓の写真や特大パネルを見て、非常に嬉しそうでした。彼は、こんな遠い東洋の街にクレイジーなファンがいるのにとても驚いていたのではないでしょうか。
それからなぜか?グレッグは新品GIBSON J-200とピーターソンAMPを売約してくれました。
2階の部屋では、そのギターで"COME&GO BLUES"のさわりと"BLACK BIRD"(勿論ビートルズ)を唄ってくれました。彼の歌はステージの迫力のあるそれと違い、とても物悲しくブルースっぽく、聞いている方をうっとりさしてくれました。
あと、特にびっくりしたことは、グレッグにデゥエインのことを話すことはタブーとされていたにもかかわらず、グレッグ自身からデゥエインについて色々話してくれました。
「俺はデゥエインが死んだ時何もする気が起きず、毎日をただ過ごしていたんだ。そんな時ディッキーがやってきて、おまえはバンドをつづけるべきだというし、重い腰を上げてまた始めてみたけれど、非常に辛い日がつづいたよな。」と、その時の自分がどのように辛かったかを話してくれました。2階に飾ってある大きなデゥエインのパネルを指して「このSGは今の俺のベッドの下にしまってあるんだ」といい、「デゥエインは当時SGを三本持っていて、白いSGをディッキーにやったよ」と話していました。そして自分のパネルを指さして「このパネルは俺が24歳の時の写真で、右手首に包帯をしているだろう。これは、ハーレーに乗ってスタートしようとした時、友達が前に出てきたのをよけようとして骨折したんだ。直るのに7ヶ月もかかったよ。」と説明してくれました。
部屋を出る時、私の古いパネルを見て、「クニオはまだバンドをやっているのかい?名前はなんていうんだ。」と聞くので、ナンシーと答えたら「うーん、聞くだけ野暮だった」といって帰って行きました。
ホテルへ送る途中グレッグは、店をいつ始めたのかとか、アレンと私がどうして知り合いなのかとか、ジェリー(我々のパートナー)って誰かを聞いていました。
誠実そのもののディッキーに比べ、グレッグは行動は一見ちゃらんぽらんのように見えますが、昨年渡した名刺をちゃんと持ってきてくれたり、勿論名前を覚えてくれていました。また公の場とは違った場所では、非常に親切で、暖かく紳士でした。
他のメンバーについては、あらためて他の機会に書きますが、静かなブッチ、やさしいジェイモ、楽しいアレンとウォーレンは相変わらずでした。今回同行しT5あパーカッショニストとは一度も話す機会がなく残念でした。
最後にABBからみなさんへメッセージをもらいました。
「昨年同様、皆さんの暖かいご支援により、再び日本に来ることができました。どこのコンサートも我々なりに一生懸命やったつもりです。また近いうちにやってきたいと思いますのでよろしく」
   

終わり…